四本目
前の記事で、考えないと私の人生は改善されない、と書いた。
では、逆はどうなるのか。考えられなかったら、どうなるのか。
私は、経験している。
以前の仕事を、辞めている。
ぶっちぎり
特性のある人が集まる場所では、「ぶっちぎり」という言葉を聞くことがある。ある日突然、何も言わずに来なくなる。連絡もつかない。そういう辞め方のことだ。
私は、そうではなかった。
決めてから話をして、段取りを組んで、引き継ぎをして、日を決めて辞めた。手続きの上では、まったく問題のない辞め方だったと思う。
でも、ぶっちぎらなかった、というだけだったかもしれない。
中身は、たぶん自爆だった
今になって自分の辞め方を評価すると、こうなる。
色々抱え込んで、最後に自爆した。
形が整っていただけで、中身は違った。じわじわ抱え込んで、抱えきれなくなって、そこで初めて「辞める」という手が出てきた。順番として、限界が先にあって、判断が後から追いついている。
これは、突然来なくなる人と、実はそんなに遠くない。外に見える形が違うだけで、内側で起きていることは近い。
私はずっと、自分は踏みとどまった側の人間だと思っていた。手続きを踏んだかどうかで、自分を測っていたのだと思う。
何がどうなっているか、分かっていなかった
なぜそうなったのか。
一番の理由は、これだと思う。
最後は、何がどうなっているか分かっていなかった。
自分がどれくらい消耗しているのか。何にどれだけ持っていかれているのか。どこを削れば楽になるのか。何ひとつ把握できていなかった。
きついとは思っていた。でも、何がきついのかは分かっていなかった。
分からなければ、手は打てない。だから何も打たないまま、その日をこなし続けた。それが限界まで続いた。
隙は、あった
正直に振り返ると、考える隙がまったく無かったわけではない。少しはあった。
でも私は、その隙も仕事のことを考えるのに使っていた。
手順のこと。人のこと。目の前の困りごと。そういうことなら、いくらでも考えていた。むしろよく考えていた方だと思う。
考えていなかったのは、自分のことだけだった。
自分が今どういう状態か、これから何が起きそうか、そういうことを考える時間だけが、まるごと抜けていた。
だから、相談もしなかった
ここが、長いこと分からなかったところだ。
私は相談するのが下手だ、と自分では思っていた。でも、少し違った。
相談する必要を、感じていなかった。
困っている自覚が無ければ、相談する理由は発生しない。相談が下手なのではなくて、相談という行動が起動する手前で止まっていた。
そしてその自覚は、自分について考えることからしか生まれない。その時間を持っていなかったのだから、自覚が育ちようがなかった。
自分のことを思考しない。だから自分の状態が読めない。読めないから困っている自覚が出ない。自覚が出ないから相談しない。相談しないから抱え込む。抱え込んで、最後に自爆する。
一本の線だった。
今の対策
だから今の私の対策は、二つとも仕組みの形をしている。気合いや心がけでは、同じことをまた繰り返すからだ。
一つ目。自分を思考する時間を、予定に組み込む。
気が向いたら振り返る、では絶対にやらない。時間帯を決めて、そこに置く。私の場合は朝で、そこは何があっても動かさない。削られそうになった時点で、それ自体が異常のサインになるので、指標も兼ねている。
二つ目。相談も、予定に組み込む。
「困ったら相談する」では、困った自覚が出ないので永遠に起動しない。だから、困っているかどうかに関係なく、話す時間の方を先に置いておく。
以前の記事にも書いたが、大事な話は休日の朝に置くことにしている。何か気になることがあれば、そこで出す。無ければ出さない。それでいい。枠が先にあることが大事で、中身は後から入る。
パートナーに持って行く話ではないものもある。それは、別に聴いてもらう時間を取っている。
思考も、相談も、予定に組み込むわけだ。
ぶっちぎらなかった、というだけ
あの辞め方は、個人的には仕方がなかったと思っている。あの時の私には、他の手が見えていなかった。
でも、一般的に言えば、あれは失敗だ。
抱え込んで、把握できないまま限界まで行って、そこで初めて手を打った。形が整っていただけで、中身は自爆だった。ぶっちぎらなかった、というだけだ。
できれば、同じ失敗は繰り返したくない。
だから私は、思考と相談を予定に組み込むことを、みずから、えらんだ。
みずから えらぶ
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