三本目
ここまでの二本で、私のこだわりは思考することらしい、と書いた。そして、それを受容してほしいのだ、とも書いた。
では、その思考は何のためにあるのか。
自分のことなのに、答えるのに少し時間がかかった。
最初に出てきた答え
考えなくて済むようにするためだ、と最初は思った。
洗濯物がそうだ。しまいやすさと取り出しやすさを一度考えて、分け方と畳み方を決めた。決めてしまえば、次からは考えない。手が勝手に動く。
料理も、朝の段取りも、仕事の手順もそうだ。最初に考える。決める。あとは体が覚える。
だから私は、考えなくていい状態を作るために考えているのだと思っていた。
でも、それだと辻褄が合わない
その理屈でいくと、全部が自動になった日、私は満足しているはずだ。
でも、そうはならない。
考えることが無くなると、私は落ち着かない。手順がすべて決まりきった時間が続くと、どこかで息が詰まってくる。満足どころか、逆だ。
だとすると、最初の答えは間違っている。
言い直してみる
たぶん、正確にはこうだ。
もっと思考するため、思考している。
一度考えて道を作ると、そこは通るだけで済むようになる。考える必要がなくなる。すると、その分の余裕が空く。
空いた分で、次のことを考えられる。
だから目的は「楽になること」ではなかった。「次の場所へ行けること」だった。
そう思うと、洗濯物の分け方も、効率を良くしようとするのも、次はもう少しうまくやろうとするのも、全部同じことをしている。道を作って、その先へ進もうとしている。
繰り返されることや、興味があることには、私は必ずこれをやる。
なぜ、そこまでするのか
ここまで書いて、もう一段あることに気づいた。
なぜ、そこまでして進もうとするのか。
答えは身も蓋もない。考えないと、私の人生は改善されないからだ。
考えて決めたことは、たいていうまくいった。考えずに動いた日は、たいてい後で困った。忘れ物をする。段取りが崩れる。同じ失敗をもう一度する。
両方を、何度も経験した。
生まれつきではなく、覚えたのだと思う
だから、これは私の性格というより、覚えたことなのだと思う。
考えたときに得をした経験と、考えなかったときに損をした経験。その両面から、繰り返し学んできた。学び終える頃には、考えることが体に馴染んでいた。
こだわりというと、生まれつき備わったもののように聞こえる。でも私の場合は、たぶん違う。
後から身についた、こだわりだ。
行き先は決めていない
道を作った先に、何か欲しいものがあるわけではない。
たぶん、順番が逆だ。
先に行くために作っている。というより、作っていたら先に進んでいた、の方が近い。
目的地を決めてから歩いているわけではない。歩いているうちに次の分かれ道が見えて、こちらだろう、と選んでいる。その繰り返しで、気づくと今の場所にいる。
知りたいことができると、私はそちらへ寄っていく。仕事の選び方もそうだ。考えたい対象があって、それを考えられる場所を選ぼうとしている。
面白いのは、その「知りたいこと」自体も、考えているうちに出てきたものだということだ。最初から持っていたわけではない。考えた結果として現れて、そしてまた、そちらへ進んでいる。
だから、私が選んでいるのは、たどり着く場所ではない。方向だ。
強いて目的を言うなら、その先に何があるのかを知るために考えている、ということになるのかもしれない。
行き先は、今も分からない。
でも、方向は自分で選んでいる。
みずから えらぶ
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