前に、こう書いた。
要は、業務に慣れて、暇ができ、刺激を求めてしまっている状態だ。これも私の発達特性だと思う。機があれば、そのこともいつか書きたい。
その「いつか」を書きに来た。ところが書き始めてすぐ、訂正が一つ要ることに気づいた。
あれは、暇ではなかった。
時間は、余っていない
暇というのは、時間が余ることである。することがなくて、時間だけが長い状態だ。
だが、いまの仕事でそうなることはない。手が空いて困る、という時間は、ほとんど無い。
つまり私は、自分に起きていることを取り違えたまま書いていた。
余っていたのは、頭のほうだった
起きていたのは、こういうことだと思う。
業務に慣れる。すると業務が相対的に簡単になる。手が勝手に動くぶん、頭が余る。空いたのは時間ではなく、頭のほうだった。
これは、準備の話を書いたときにも触れている。あのとき私は「体が流れを覚えたあとの話である」と書いた。体に預けられるようになると、頭は別のことを始める。
暇と、思考の余地は違う。暇は時間が余ることで、思考の余地は頭が余ることだ。 私に起きていたのは、後者だけである。
頭が余ると、違和感を拾い始める
頭が余ると、私は違和感を拾い始める。
「これはどうして、こうなっているのか」
「ここを右からではなく、左から出たらどうなるか」
「あの人はどうして、こういう動線をとるんだろうか」
そして、試す。いまの業務は一日のうちに何度も回ってくるので、その日のうちに試して、その日のうちに直せる。 これがなかなか楽しい。
ただし、試すのは自分の行動の範囲だけである。人にお願いをしたり、指示をしたりはしない。
あの文章で「これも私の発達特性だと思う」と書いたとき、私は明確にADHDを意識していた。診断を受けたわけではない。それでも、頭が空いた途端に勝手に動き出すこの感じは、自分の何かと繋がっている気がしている。
刺激は、人から来ている
拾う違和感の多くは、人から来ている。
動きもそうだし、発言のあるなしもそうだ。仕事をしていれば、どうしても動きが出る。その動きから、私は刺激を受ける。 だからそこから思考が始まる。
会話だけではないのは、たぶん仕事だからだ。できるなら、その人の価値観や、考えていることや、悩んでいることや、どうなりたいかまで聞きたい。だがそれは、仕事の場面ではあまり出てこない。だから私は、動きのほうを読む。
前に「人と接すると着火する」と書いた。あれは、こういうことだったのだと思う。
出しどころを、間違えたことがある
正直に書いておく。
この特性の出しどころを、私は一度間違えている。線を広げたくて、線を壊していた、と書いたあれである。頭が余って、違和感を拾って、試したくなって、自分の範囲を越えたところまで手を伸ばした。
問題は、頭が余ることでも、違和感を拾うことでもなかった。どこまでが自分の範囲かを、私が勝手に決めていたことのほうだった。
守っているのは、一つだけ
これは私の大切な特性だと思っている。困ってもいない。
思考が始まるのは止められない。試したくなるのも止められない。それでも、人に押しつけないという点だけは、守らないといけない。
前に、握りすぎると解釈になる、と書いた。握るのは止められないから、渡さないことだけを守る、とも書いた。今回も、まったく同じ形をしている。

だから、収めるつもりはない。出すところに出せたなら、これは立派な得意になるとすら思っている。
その場所の見当は、ついている。経験を重ねて、それなりの発言権が生まれたときだ。そうなれば、頭の中だけで試していたことを、公に行動として起こすことが許される。思考ではなく、問題解決になる。
いまはまだ、経験も発言権もない。だから引き出しを増やしている。
みずから えらぶ
刺激に従順すぎて、少し自分勝手だった話。
体で覚えても、こぼれるものの話。
自分本位の先に、人へのおもいやりとかが滲み出るのかもしれない。
尋ねもいないことを伝えるということは、迷惑なのかもしれない。