——鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』を、入浴介助の現場で検算する
鈴木宏昭さんの『私たちはどう学んでいるのか ——創発から見る認知の変化』を読み終えた。認知科学の本だが、読んでいるあいだ、ずっと自分の入浴介助の仕事のことを考えていた。血肉にしたいので、書き留めておく。
なお、この本には「シングルタスク」「マルチタスク」「タスクスイッチ」「フロー」といった言葉は出てこない。それらに触れる箇所は、本の主張ではなく、私が現場で考えたことである。境目はそのつど断る。
全部を覚えなくていい、という許し
最初に刺さったのは「オフロード」という考え方だった。
準備する項目をすべて頭に入れておくのではなく、環境や人を見ることで、思い出す機能のほうを使う。そもそも人の脳は、何十ステップもの作業を順番に保持しておくようにはできていないらしい。
これは、私が現場で自然にやっていたことだった。手順書を暗記して臨むのではなく、その場を見て、次に必要なものを思い出す。私はワーキングメモリが小さいほうなので、そうせざるを得なかった面もある。
ただ、本を読んで、受け止め方が変わった。
環境から訴えかけてもらう戦略は、私みたいな人に効く手法だと思っていた。でもどうやら、一般的に必要な手法だったようだ。
そう考えていて、ひとつ引っかかった。そもそもワーキングメモリが小さい時点で、環境からの訴えで手順が想起される、という流れそのものの定着も、弱いのではないか。
ただ、オフロードという言葉は、もともと荷物を下ろすという意味だ。記憶という荷物を下ろすこと自体は、私のような物覚えの悪い人間には有効だろう。そして大事なのは、繰り返し練習することで、それが定着を支えているのだろうと思う。
動線がまとまってくる
次に「マクロ化」。練習によって手順が記憶され、いくつかの手順が一挙に行われるようになることだ。
私の仕事に置き換えると、ひとつの動線でいくつかの手順をまとめて行うようになった、という変化である。入職したころは、ひとつ済ませては次を思い出し、また動く、の繰り返しだった。いまは、歩きながら三つ四つが片づいている。自分で決めてそうしたというより、いつのまにかそうなっていた。
「両手が別々に動く」に引っかかった
いちばん面白く、いちばん引っかかったのが「並列化」だった。
本では、練習によって右手と左手が、補助的な関係を超えて、別々の作業を行えるようになる、と説明される。これを自分の仕事に当てはめようとして、うまくいかなかった。
私の実感では、右手と左手で別のことをしていても、片方がメインで、片方は考えなくていい作業にとどまっているか、左右一組でひとつの作業をやりやすくしているだけに見えたからだ。ピアノで右手と左手と足を動かすほうが並列化に近い気がしたが、それも「音を奏でる」というひとつの作業を細かく分担しているだけではないか、とも思った。
そもそも並列化は、シングルタスクという考え方と正面からぶつかるのではないか。ここからしばらく、自分の中で考えた。以下は私の考えで、本には書かれていない。
目的が別かどうかでは測れない
まず、「目的が別々かどうか」で並列化を判定すると、うまくいかない。この基準だと、ほとんどの熟練が並列化から外れてしまう。入浴介助だって「安全に入っていただく」というひとつの目的だし(本当はもっと細かい目的があるが、今回はあえて単純化させておく)、ピアノも「音を奏でる」ひとつだ。
測るべきは目的ではなく、考えなくても勝手に走る流れが、同時にいくつあるかなのだと思う。
「考えなくていい」は、完成した証拠
そう考えると、私が引っかかっていた「片方は考えなくていい作業にとどまる」は、並列化の反証ではないのかもしれない。むしろ完成した姿なのかもしれない。
並列化は「両手が同じくらい頭を使う」状態ではないのではないか。練習前は注意が必要だったものに、注意が要らなくなること。それこそが練習の成果なのではないか、と思う。まだ両方に気を配らないといけない段階なら、それは並列化の途中なのかもしれない。
だから、シングルタスクとぶつからない
ここまで来て、最初の疑問が解けた。
並列化が進むほど、考えなくていい流れが増えて、意識を向ける先は一つに絞られていく。つまり——
並列化の完成形は、本人にはシングルタスクに感じられるのかもしれない。
よく言われるのは、「マルチタスクというものは存在しない。人は高速でタスクを切り替えているだけだ」という話だ。意識を向けられる先は、結局いつも一つしかない、という指摘だと理解している。
だとすると、並列化はこれとぶつからない。並列化した状態というのは、たぶん片方のタスクには、ほとんどリソースを割いていないのだと思う。高速で切り替えているのではなく、練習により、マクロ化したり、リソースが必要なくなったりしているのではないだろうか。
だから、矛盾はしないのだろうと考えている。
私の到達点は、たぶん悪くない
そう考えると、いまの自分の状態は、練習の到達点としてそれほど悪くないのかもしれない、と思えてきた。
意識の下で、複数のことが走っている。これは、そこそこのところまで来ている、ということではないか。
ただし、いつでもそうだというわけではない。実際、崩れるときがある。
崩れるとき
利用者さんに関係のない話になると、手が止まる。手順が飛ぶこともある。話に注意が向けば向くほど、その傾向が強くなる。経験が長い人でも起きる。私にも起きる。
そういうときは、イフゼンで作業に戻ることになる。「もしこうなったら、こうする」と前もって決めておくやり方だ。
そして、いちばん気持ちが悪いのが、利用者さんがいないような感覚さえあることだ。目の前にいるのに、意識の中から消えている。
見ていなかった、というだけの話
なぜ崩れるのか。ずっと「注意の量が足りなくなるから」だと思っていた。でも、それでは説明がつかない。量が足りないだけなら、利用者さんは薄くでも視野に残っているはずだ。消えるのは、おかしい。
物理的に考えてみて、答えが出た。
利用者さんの話をしていないとき、私は利用者さんを見ていない。 相方のほうを見ている。
見ていないのだから、環境から手順を訴えてくる情報が、極端に減る。手が止まるのは、頭がいっぱいになったからではなく、思い出させてくれるものが、視界から消えたからだった。
つまり、最初に書いたオフロードには前提があったのだ。環境に思い出させてもらう戦略は、その環境を見ていることで成り立っていた。 見るのをやめた瞬間、外部の記憶とのつながりが切れる。
「利用者さんがいないような感覚」は、比喩ではなかった。そのとおりのことが起きていたわけだ。
ここが本当は怖いところ
ひとつ、書いておきたいことがある。
手が止まるのは、外から見える。同僚も気づくし、自分でも気づく。
でも「利用者さんが意識から消えている」状態は、外から見えないし、自分でも後からしか気づかない。 手はむしろ滑らかに動いているかもしれない。
そして、その場にいるスタッフが同時に、利用者さんを置き去りにしている可能性が出てきた。それは、利用者さんにとって不利益な状態である。
だから、「利用者さんじゃない話になった場合も、利用者さんから目を離さない」というイフゼンを決めておこうと思う。おそらく、話は弾まないと思うが、利用者さんがいるうちは、それが良いと思う。
いつから、こだわり始めたのか
最後に、これも本を読みながら考えたことだ。
そもそも私は、いつから入浴業務にこだわり始めたのだろう、と振り返ってみた。ずっとこだわっていたわけではない。担当の構成が変わって、この業務の中心を自分が担うようになったあたりからだと思う。それ以前は、こだわる気持ちはなかった。さらにその前は、そもそも自分の裁量が少なかった。
以前にも別の活動で、同じように「ここで一番になりたい」と思い始めた時期があった。あのときは、なるべくしてそうなった感覚があった。今回は少し違う気もする。後天的に育ってきた印象がある。そして、今は「この業務なら私」と言われたい、とすら思う。
後天的と言っているが、なんとなく再現性がありそうな気がしている。
これから
私なりにこの業務を極める方向で考えていきたいと思っている。
その過程で、ほかの仕事でも再現性が出せるようなヒントを、少しずつ顕在化させてみたい。自分の仕事にそういう側面を作り出せたら、素敵ではないだろうか。
関連記事
慣れで頭が空くという感覚に言及した話。
イフゼンについて触れた話。
紹介した本
鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか ——創発から見る認知の変化』
ちくまプリマー新書403/筑摩書房/2022年6月刊/224頁/ISBN 978-4-480-68431-8
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480684318/
著者の鈴木宏昭さんは2023年3月に亡くなられた。学会誌『認知科学』に追悼特集が組まれている。