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息をするために、動き続ける

私の一日には、「配分」の感覚がない。

朝から夜まで、エネルギーを均等に配って働く。多くの人がやっているらしいその方法が、私には想像がつかない。私の一日は、波乗りでできている。

朝の私は、ぱっと起きられない。それでも布団から出られるのは、パソコンと本が待っているからだ。どちらかを開けば、すぐに波に乗れる。ゆっくりしていれば、そのぶん波に乗る時間が削れていく。だから自然と、体が動く。

そして波に乗り始めた、ちょうどその頃。子どもが朝ごはんを待っている。

波は、時間で降りる。正直、惜しい。乗っている波が高いほど、家事が煩わしくなる。波が本格的に高くなるのは午前で、乗っている間は、いくらでも作業できる感覚がある。苦ではない。むしろ快で、降りる理由が見当たらない。脳の中ではドーパミンとやらが出ているのだろう。仕組みの詳細は分からないが、乗っている実感だけは、はっきりある。

今この文章は、子どもの決まったテレビの時間に書いている。隙間も波に乗らない手はない、見送るのは惜しい。それに、思いついたことの賞味期限が、私は短い。数年もすれば、休日の子どもは自分の予定に出ていくようになるだろう。そのとき私の波との付き合い方がどうなるか、少し楽しみにしている。

ところで、波はどこにでも立つわけではない。

波が立つのは、興味の海だけだ。前の記事で書いたように、私は「重要だから」では動けない。興味の外の海は、私にとってべた凪で、いくら板の上で待っても何も来ない。

だから私は、待つのをやめた。

「波が来ない」と嘆く代わりに、波のある海を探す。少しの興味を頼りに、ときどき少しの妥協を飲みながら、動き回る。そうしていたら、波があった。妥協ごと飲み込んでくれるくらいの、大きな波もあった。

マグロは、泳ぐのを止めると死ぬらしい。泳ぐことでしか、エラに酸素を送れない体だからだ。ただ、調べてみて面白かったのは、マグロは止まらないだけで、飛ばし続けているわけではないということだ。普段は疲れにくい筋肉でゆっくり泳ぎ、狩りのときだけ全力を出す。止まらないことと、全力を出し続けることは、違う。

私の探索も、たぶん同じだ。止まれないのではない。止まらないことで、呼吸をしている。そして波に乗っていない時間は、全力でなくていい。すぐに乗れない小さな波と、戯れておく。私にとっては読書がそれで、大きな波が来ている今は、少し遠のいている。それでいい。そのうち、波が来る海が見えてくることもある。これが私の波との付き合い方だ。

それでも、一つだけ恐れがある。興味は、失せることがあるのだ。今の海が、いつか凪ぐかもしれない。それは私には、けっこう怖い。「安定は衰退の始まり」という言葉があるが、凸凹の身には、あれは格言ではなく実感だ。だから、戯れをやめない。

幸い、いまは潮がいい。乗っている波のほかに、沖にも次の波がいくつか見えている。

私のイフゼンには、こう書いてある。

「波が来たら、乗る。波がないときは、次の波を探して動く。」

みずから えらぶ。

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