MENU

受容、私に決められること

前の記事の最後に、私はこう書いた。

邪魔をしないでほしい。できたら、受容してほしい。

書き終えてから、なぜそこまでなのか、と自分で思った。洗濯物の畳み方の話をしていたはずが、ずいぶん遠くまで来た気がした。

でも、たどってみると、そんなに遠くなかった。

目次

「なぜ」を繰り返してみる

私は、人の手順を邪魔したくない。理由が分からないまま相手のやり方を変えるのが、どうにも落ち着かない。

なぜか。

相手のこだわりを壊したくないから。——これは前の記事で書いた通り、半分は私の思い込みだった。

もう一段、掘り下げてみる。

理由が分からないままだと、私は「この人は変だな」と思ってしまう。それが嫌なのだ。

相手が理由を教えてくれたら、私は相手を変だと思わずに済む。だから先に聞きたがる。私が守っていたのは相手ではなく、相手を否定的に見てしまう自分の方だった。

さらに掘り下げる。なぜ、人を否定的に見たくないのか。

ここで答えが出た。

私も、否定されたくないからだ。

これ以上は掘り下げられない。何度やっても、ここで止まる。たぶん、ここが底だ。

受容は、たぶん巡っている

自分を振り返ると、順番があるように思う。

一つ目。自分が受容される。 他人からのこともあるし、自分で自分を受け入れることもある。そうすると、少し余裕ができる。

二つ目。他人を受容する。 前の記事で「前例踏襲は省エネであって、サボりではない」と書けたのは、たぶんここに入っていたからだ。以前の私なら「なぜ考えないのか」で止まっていた。

三つ目。また、受容される。 今度は私が誰かに受容されることもあれば、私ではない誰かが受容されることもある。

そして、また一つ目に戻る。たぶん、そうやって巡っている。

私は今、二つ目のあたりにいる。一つ目でゆるく充電しながら、二つ目に挑戦している、という感じだ。

燃料は、自分で入れるしかない

ここで、困ったことがある。

三つ目は、相手が決めることだ。 私が受容されるかどうかも、誰かが受容されるかどうかも、私には決められない。待っていても来ないかもしれないし、来たとしても私の望む形ではないかもしれない。

そこに賭けると、この巡りは他人次第で止まる。

だから、燃料は一つ目で自分で入れるしかない。自分で自分を受容する分だけは、自分の裁量で作れる。

私の場合、それは朝の時間だ。誰にも邪魔されない時間に、本を読んで、考えて、こうして書く。自分の考えが的外れでないかを確かめる。それだけで、その日は自分でいられる。

思考しているだけでも、たぶん満足はしている。書くと、もっと生き生きする。それを誰かに受容してもらえたら、なお良い。

削られる日もある

もちろん、削られる日もある。

自分が大事にしていることに、それには意味がない、という趣旨の言葉が返ってくることがある。悪意ではないと思う。ただ、通貨が違うのだ。相手の物差しでは、私のやっていることは測れない。

そういう日は、燃料が減る。

減ることは止められない。だから、入れる方を止めないようにしている。朝の時間を削らないことを、私は最優先にしている。労働が睡眠を削り始めたら黄色信号だと決めている。

守っているのは時間ではなく、燃料タンクの方だ。

選べるものと、選べないもの

前の記事で「受容してほしい」と書いた。

でも、それは相手が決めることだった。私には決められない。

私に決められるのは、二つだけだ。誰かを受容するかどうかと、自分を受容するかどうか

どちらにも、相手の許可は要らない。

だから今は、そちらをえらんでいる。

みずから えらぶ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次