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ルールだらけの、クリアな世界

私にとって、イフゼンを集めることは、価値観を明確にすることだ。そして、世界をクリアにすることだ。

イフゼンというのは、「もし〇〇したら、〇〇する」という、自分向けのルールのことだ。じつは心理学で効果が検証されている技法でもあって、行動を変えたいときに効くらしい。その話は、いずれ別の記事で。

私は、自分の価値観に沿ったことなら即決できる。逆に、価値観を当てはめても判断できないことは、決めるのに時間がかかる。基準が何もないからだ。

たとえば私に「健康的でありたい」という価値観があるとする。ファミリーレストランに行けば、メニューからサラダを選ぶかもしれない。いや、そもそもファミリーレストランには行かず、家で健康的な料理をつくるだろう。そんな調子で、人生は生きやすくなる。世界がクリアになるからだ。

「健康的でありたい」なら、健康になれるイフゼンを集める。健康といっても程度があるから、イフゼンには必然的に微調整が要る。「朝起きたら、そのまま散歩する」と「朝起きたら、そのままジョギングする」は、同じようで違う。

価値観はひとつではないし、持っていない人は、おそらくいない。「ない」と思っている人は、気づいていないか、まだ育っていないかだ。そこらへんの議論は、科学者にお願いしよう。

では、どうやって自分の価値観に気づくか。私の場合は「とにかく試す」だ。何かにつけて行動してみる。そして、その行動に対して自分が何を思うかを、感じてみる。快を感じたら、その方向に価値観があるのだろうし、不快なら、違う方向にあるのかもしれない。

私は以前、自分のことを、人とつるむのが好きだと思っていた。いまは、一人で自分のことを考えている時間のほうが好きだと知っている。路線変更するまでは、何かと他者とつながろうとしては空回りして、辛い思いもした。

そうやって分かった「価値観」という眼鏡が、たくさん集まっていく。選択や出来事に出合うたび、その場にふさわしい眼鏡をかけて対応する。同時に複数の眼鏡で見ることもできるのかもしれないが、いまの感覚では「かけ替えている」のほうがしっくりくる。

AIは「価値観を選びなおすのは、レンズを磨き直す作業では」と例えてくれたが、私にはしっくりこなかった。AIにそう言われて、1つの眼鏡に複数の価値観を重ねることができるのか、という疑問が湧いた。私には、複数の価値観で物事をみるイメージはしっくりこなかった。単一の眼鏡が他の価値観と統合するイメージなら、なんとなくしっくりくる。そして、メインの眼鏡がいくつか出来るイメージだ。たくさんの眼鏡を絶えず架け替えている画は、さすがの私も想像して疲れた。良くも悪くも、定型の人は眼鏡の掛け替えなのか、レンズのピント調節なのか、自動性能がすぐれているのかもしれない。

私もいまのところ定型の枠組みに入っているが、本当のところは分からない。きっと人それぞれに「自動具合」が違って、意識して使ううちに馴染んで自動になったり、あえて意識に戻して再調整したりしているのではないだろうか。ともかく私は、ひとつの物事を、眼鏡をかけ替えながら見ている。その感覚だ。

眼鏡をかけて物事を見ていると、そのうち、出来事への対応に法則性ができあがる。イフゼンだ。勝手にできあがっていることもあるが、良いイフゼンは意識的に作っている——それが私のイメージだ。無意識にやっているイフゼンは、言葉にできるとすっきりする。たぶん、良くないイフゼンもそうだ。「寝不足のときに、イライラすることがあったら、そのままキレる」みたいな一般的なものから、ちょっと訳の分からないイフゼンもあるだろう。そこから価値観が分かることもある。イフゼンと価値観は、双方向でつながっているんだと思う。

価値観が固まり、ルールだらけの人間は、「なんか、あの人変わってるよね」と、周りからは見えているかもしれない。でも本人の内側では、割と確実に、生きやすくなっている。

特に私の凸凹には、この人生戦略がかなりしっくりくる。イフゼンも価値観も、おそらく普遍性はあるのだろうけど、それ以上に、私にフィットしている感覚がある。ルールだらけで生き辛そうと言われそうだが、世界はクリアだ。

今は、そんな生き方を、みずからえらんでいる。

みずから えらぶ

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