虚しい。このブログの記事が6本たまった頃に感じたことだ。
始めは、私の特性からくる飽き性だと思った。でも、AIとの壁打ちと記事作成にはどんどん没頭している。恐らく今回は違う。
次に考えたのは、AIとの分業による副作用だ。私はAIに体験や感情を話し、AIはそれらを形にする。今までは全部一人でやっていた。記事の組み立てはAIがやってくれるし、理論の提示までしてくれる。一人でやっていた作業のどこかが欠けて、それが虚しさにつながっているのではないか。
注目したのは「インプット」である。ここ一週間、まとまった読書ができていない。AIから理論の提示があっても、そこから独自に学びを広げることをしていないのだ。私にとっての読書は、単なるインプットではない。著者との対話でもある。「あなたはそう思うんだね」と勝手に対話している。少し脱線した知識も大好きだ。「へぇ」とか「はっ」とさせられる瞬間が好きなのだ。
こう書いてみると、AIとの作業にもそういう瞬間はある。これも書いていて気付いたのだが、その先に人がいるかいないかの問題でもあるのかもしれない。以前書いた「共有現実」が関わっていそうである。AIとの作業に偏りすぎて、人との営みを再び求めているのかもしれない。
もうひとつ、壁打ちの中で気付かされたことがある。AIとの分業では、必然的に私は社長のような役回りになる。素材を出し、方向を決め、最後の言葉を選ぶ。私はその積み上がりを認識できず、失った積み上がりばかりを見ていたのだ。中間管理職に上がった頃を思い出す。あの頃はプレイヤーとしての思考が抜けきれず、悪戦苦闘していた。今回は、ドロップアウトせずに走れそうである。
今回の話からイフゼンを作るなら「状況が変わったら、一旦立ち止まり状況を見直す」である。まさにこの記事が、それにあたる。まだまだ粗削りだが、落とし穴の回避には十分活躍してくれるんじゃないだろうか。
この文章も締めにかかるが、実は今回、第一稿は私が書いた。AIからの提案だ。作業スピードを考えると気乗りはしなかったが、見えたものもあった。書けそうな記事は、私の手で書いてもいいかもしれない。「構想が湧いているときは、自分で書いてみる」のイフゼンもよさそうだ。たまには気分転換も必要である。
自分の人生に、主体性を。
みずから えらぶ
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