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まとわりつく汗、流れていく汗

以前、睡眠と感覚の過敏・鈍麻について書いた。自分の感覚を睡眠という場面で棚卸ししてみたら、触覚と温度には過敏があり、光と音は鈍麻の側らしいと分かった、という話だ。だから寝具と室温には手をかけ、遮光や耳栓には力を入れない。

今回は、その触覚の続きになる。舞台は睡眠ではなく、シャワーだ。

目次

朝のシャワーで、スイッチが入る

夏は、朝にシャワーを浴びることが多い。朝方に散歩をして、まとまった汗をかくからだ。パートナーからにおいを指摘されているから、でもある。これについては後で書く。

シャワーを浴びると爽快感がある。コーヒーを飲んでカフェインが効いたときのような、頭のすっきりする感じも伴う。そのあとはいくらか多弁になっている気もする。何かのスイッチが入る感覚がある。

もっとも、これがシャワーだけの手柄かというと、怪しい。散歩で体が温まり、汗をかき、頭がもう動き出している。そこにシャワーが乗っているだけかもしれない。かさましのようなものだ。

帰ってからのシャワーは、別のものだった

仕事から帰ってシャワーを浴びることもある。こちらは、まったく別のものだった。

帰宅直後は、冷房の効いた部屋に入ってもしばらく汗が出る。この時間を抜けると、浴びずに済むこともある。だが多くの場合、乾いた汗が皮膚の上に膜を作る。風を感じることができず、熱い感覚が長く残る。

ここでシャワーを浴びると、膜が流れる。冷房や外の風が、また届くようになる。そこから出てくる汗は、まとわりつくものではなく、どこかへ流れていくものに変わる。

ただ、朝のような頭の爽快感はない。すっきりはするが、それだけだ。プラスが増えるのではなく、マイナスがゼロに戻る。

朝の爽快感が散歩のかさましだとすれば、シャワーそのものの姿は、こちらのほうなのだろう。

触覚が、パフォーマンスを奪っていた

この、何かをまとったような感覚は、じわじわとダメージを与えてくる。頭のどこかに、皮膚にまとわりつく感覚が居座り続ける感じだ。

今の働き方では、職場でこれに付きまとわれることはほとんどない。だが常勤で働いていた頃は、帰るころにこの感覚に襲われることが多々あった。とくに頭皮が印象に残っている。膜のようなものがあり、痒みもあった。

私には、触覚に活動限界のようなものがあるのだろう。その時間を過ぎると、触覚が私のパフォーマンスを奪っていく。逆にいえば、シャワー一つで、その限界を巻き戻せるのかもしれない。

ある線を越えると、体臭が変わった感覚もあった。自分のにおいには気づきにくいはずなのに、「今の私は、きっと臭いに違いない」という確信に変わった。

汗拭きシートを試した時期もある。小一時間しか持たなかった。しかも頭皮には届かない。膜も痒みも、そのまま残った。

こうして書き出してみると、この触覚は、しっかりと私の足を引っ張っていたように思う。

今思えば、あのとき一度でもシャワーを浴びられていたら、仕事の効率はどれだけ違っただろう。いや、今の私なら、潔く仕事を切り上げて帰ってしまうと思う。

どこに線を引くか

シャワーを浴びたり、浴びなかったりを繰り返すうちに、この感覚との付き合い方が少しずつ分かってきた。この程度なら放っておいて大丈夫か、そうでないか。そのラインが見えてきた感じだ。前の記事では、自分がどの感覚に過敏かに気づくことが先だと書いた。その次にあるのは、どこに線を引くかという話だ。

光熱費と、におい

パートナーからは「光熱費がもったいない」と言われることがある。

そう見えるのも無理はないと思う。パートナーは一日に一回しかシャワーを浴びない。浴びなくていいのか、浴びる時間がないのかは分からない。ただ、そういうタイプの人に、一日に二回以上浴びたい人間の感覚は分からないのではないだろうか。膝を突き合わせて、シャワーについて話し合ったこともない。私が自分の触覚について思っていることを、おそらくパートナーは知らない。

どうしても理解してほしい、とは思っていない。ただ、このまま放置し続けるのも良くないことだとは思っている。そうこうしているうちに、シャワーが必要な季節は終わるのだろう。次に光熱費の話になったら、それとなく「気持ち悪いんだよね」と伝えてみるのもいいかもしれない。

もっとも、朝のシャワーのほうは、そもそもパートナーの嗅覚への配慮でもある。冒頭に書いたのはこのことだ。臭いと言われることが割とあるので、においのリセットを兼ねている。

感覚についての訴えは、実は、パートナーのほうが多い。私は触覚以外は、どちらかというと鈍麻の側だと思っている。分かってほしい側のつもりでいたが、配慮を必要としていたのは、パートナーのほうかもしれない。

証明ではなく、受け止める

この記事を書く前は、私の触覚の過敏さは大したことがない、という落としどころになると思っていた。実際は、普通の範囲の感覚な気もする。だが、私のパフォーマンスの限界を決めている感覚なのではないか、という気もしている。

前の記事では気づくことが先だと書き、この記事では、どこに線を引くかという話をした。どちらにしても、感覚の過敏や鈍麻は、なかなか目に映らない。目に映らないから、認識が難しいのだと思う。そして、たぶん証明できるか・できないかの話ではなく、受け止めるか・受け止めないかの話なのではないか。というのが今の私の落としどころだ。

まずは自分の感覚を受け止めて、それから相手の感覚も受け止める。世の中には、自分にとってはどうでもよさそうなことで悩んでいる人がいる。この記事を書くことで、その事実が少しでも認知される世界を、わたしはえらんでいきたい。

みずから えらぶ

私の感覚過敏・鈍麻についての話。

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@mizukara_erabu

はじめて来られた方は、こちらから。
診断はつかない。でも、たしかに凸凹はある

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