前に、準備のチェックリストをなくして不安になった話を書いた。その最後に、チェックリストを作った方がいいことと、なくてもいいことの違いを考え始めてしまった、と書いた。忘れそうなのでリマインドして、そのまま少し寝かせていた。
いま出ている答えは、二つある。覚えていられる数と、目に見えるかどうかだ。
一つ目は、数
いまの仕事に行くとき、持っていく物が五つある。これはチェックリストなしで準備できている。
前の仕事では、持っていく物がもっと多かった。だからチェックリストを作っていた。
そして、仕事に着いてからの準備は、八つから十ほどの項目がある。これは、チェックリストをなくしたときに、はっきりと不安を覚えた。
並べてみると、私の線はこのあたりにあるらしい。五つは、覚えていられる。八つを超えると、覚えていられない。
もっとも、五つのほうは毎日まったく同じ顔ぶれである。覚えているというより、体が勝手に動いているだけかもしれない。数の問題なのか、繰り返しの問題なのかは、正直まだ分けられていない。
二つ目は、目に見えるかどうか
実を言うと、なくしたチェックリストを、私はまだ作り直していない。それでも準備は回っている。
理由ははっきりしていて、その場に行けば、見えるからだ。見えれば、流れで手が動く。八つから十の項目を覚えていなくても、順番に目に入ってくるものを片づけていけば、だいたい終わる。
ただし、一つだけ抜ける項目がある。流れの上にはあるのだが、立って見渡したときに、視界に入らない場所にあるのだ。これだけは、たまに忘れる。
つまり私は、覚えているのではなく、見えているから思い出せていたのだと思う。見えない物だけが、こぼれる。
そう考えると、逆の場合の説明もつく。
旅行の荷造りがそれである。何を持っていくかは想像できる。だが、その場を見ながら準備することはできない。だから私は、必ず持ち物の表を見ながら詰める。子どもの持ち物の準備も同じで、渡された表を見ながらやっている。
その場に立てない準備には、チェックリストが要るのかもしれない。
引け目を感じていた頃
こんなふうに考えられるようになったのは、最近のことである。
昔は、チェックリストは仕事で使うものだと思っていた。決まった手順があって、間違いが許されないところで使うもの。日々の暮らしで使うのは、何かが足りない人のすることだと、どこかで思っていた。
だから、使っていることに引け目があった。
いまは違う。なくてはならない物だと分かったので、堂々と使っている。何なら、子どもにも勧めている。
変わったのは私の能力ではない。道具の位置づけのほうが変わった。足りない分を埋める物ではなく、最初から自分の一部として組み込む物になった。
だから、イフゼン
振り返ってみて、答えが出た。イフゼンは二つになる。
「その場を見ながら準備できないときは、持ち物の表を作る」
「その場で準備できるときは、見えない物だけを表にする」
八つから十の項目を、もう一度ぜんぶ書き出す必要はなかったのだ。見えている物は、その場が思い出させてくれる。表に載せるべきなのは、立って見渡しても視界に入らない、あの一項目だけでいい。チェックリストは、全部を書く物ではなく、こぼれる物だけを書く物でよかった。
ただし、これは体が流れを覚えたあとの話である。慣れるまでは、見えていようがいまいが、全部を書いたメモが要る。減らしていけるのは、あとからだ。
私の忘れ方には、偏りがある
この線が引けたのは、自分の忘れ方に偏りがあったからだと思う。
私は、何でもかんでも均等に忘れるわけではないらしい。見えている物は忘れない。こぼれるのは、いつも見えない物だ。取りこぼしの起きる場所が、毎回ほとんど同じなのである。
偏りが分かれば、書くべき物も絞れる。全部を疑わなくて済む。裏を返せば、自分がどう忘れるのかを知らないうちは、全部書いておくしかなかった、ということでもある。
急がなかったのには、理由があった
チェックリストをなくしてから、多少の不安を覚えながらも、私は作り直すのをなんとなく急がなかった。その理由も、いま分かった気がする。もちろん面倒だったのもある。だが実のところ、気をつけるべき点は、案外少なかったのだ。
危ないのは一項目だけだと分かったいま、その不安はもう小さくなっている。言葉にしただけで、解消できたのかもしれない。
もっとも、それも今の私が思っているだけである。今度その場に立ったとき、自分が何を思うのかを、感じてみようと思う。
みずから えらぶ
チェックリストを失くした時の話。
今回は準備を預け方、こちらは予定を預けた話。