私のこだわりは変かもしれない
私は洗濯物を、自分なりのカテゴリーに分ける。畳み方も決まっている。
ただ畳めばいいわけではない。ただ仕舞えばいいわけでもない。しまいやすいように、取り出しやすいように、と考えた結果が今の形だ。
家族に「こうしてほしい」と思うことはある。でも、私の手順を家族に強要するのは違うと思っているので、言ってはいない。
家事をする人には、よくある話かもしれない。
少し変かもしれないと思うのは、別のところだ。
私は、みんなにもこだわりがあるはずだと思っている。
だから思い切った行動が取れないことがある。特に仕事だ。相手のこだわりを邪魔したくなくて、自分の動きを躊躇するのだ。時々「気になったら言ってくださいね」と伝えてみるのだが、中身のある返事が返ってきたことは、あまりない。
自分のこだわりを、改めて考えてみた
発達の特性について勉強するようになって、自分のこだわりを改めて考えてみた。
思いつくものを並べてみて、少し意外だった。どれも、そこまで譲れないものではなかったのだ。
洗濯物の畳み方も、「こっちの方がきれいに見えるよ」と言われたら、「そっか、そういう考え方もあるね」と思える。「必ずこうでないとダメだ」というレベルのものが、見当たらない。
じゃあ、私にこだわりは無いのか。
そうではなかった。並べたものを眺めているうちに、共通点に気づいたのだ。
全部、自分で思考した結果だった。
しまいやすさを考えた。取り出しやすさを考えた。次はもう少し良くできないかと考えた。その結果が、洗濯物の分け方であり、畳み方だった。
つまり、私がこだわりだと思っていた行動たちは、表層だったのだ。根はもっと手前にあった。
思考が、根だった
思考は、私にとってこだわりというより、必要不可欠なものだった。呼吸を趣味と呼ばないのと同じで、それは前提であって、選択ではないと思っていた。だから、こだわりに数えていなかったのだ。
でも、「考えるな」と言われたら、私はきっと嫌だ。押さえようとしたら、たぶんもっと考えてしまう。
思考しないと落ち着かない、とも言える。思考していると安らぐ、とも言える。そう書いてみると、いわゆる常同行動に近いのかもしれない。形が違うだけで、やっていることは似ているのではないか。
数えてみたら、こだわりは思ったより少なかった。というより、たぶん一つだった。
私は、他人も思考していると思っていた
ここで、最初の疑問に戻る。
なぜ私は「みんなにもこだわりがあるはずだ」と思っていたのか。
答えは単純だった。私はこだわりがある=思考している、という見方で他人を見ていたからだ。
自分がそうだからだ。あの人がその順番でやるのには、考え抜いた理由があるはずだ。だから邪魔してはいけない。そう思っていた。
ちなみに私は、自分の仕事の手順ならおおかた説明できる。なぜなら、思考して決めたからだ。考えて決めたものには設計図が残るので、後から取り出せる。
だから他の人にも、設計図があると思っていた。
「こうやって教わったから、考えたこともありませんでした」
私の業務は単純作業が多いので、人の癖が分かりやすい。
同じ手順を毎回繰り返している人がいる。私とは違うやり方をする人がいる。効率で説明がつかない動きを見つけると、この人には効率より上位にあるものがあるのかもしれない、と考える。
それで、時々言葉に出して聞いてみる。
返ってくる答えは、だいたい同じだった。
「こうやって教わったから、考えたこともありませんでした」
仕事には前例踏襲の雰囲気もあるものだ。誰かが決めたやり方が、そのまま続いている。「そう教わったから」以外の理由を持っていた人は、極わずかだ。
そう思うと、前例踏襲の見え方も変わる。あれは省エネをしているだけで、決してサボっているわけではない。考えなくても、仕事は回るのだ。私が毎回、考えずにいられないだけで。
そう考えたら、何かしっくりきた。
こだわった先には、何があるのか
考えているだけでも、たぶん満足はしている。それをこうして文章にしたり、自分の考えが科学的に妥当かどうか確かめたりすると、もっと生き生きする。
その先に、望んでいることが一つある。
邪魔をしないでほしい。できたら、受容してほしい。
たぶん、これが私のもっと奥にある欲求だ。そのうち、そこも書こうと思う。
みずから えらぶ
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