「何か手伝えること、ある?」
「大丈夫、邪魔だけはしないで」
「……承知」
子どものイベントに持たせる、お弁当作りでの会話だ。
普段は私がお弁当を作る。でもこの日はパートナーが休みで、作ってくれることになっていた。私はその小一時間、朝のルーティーンをこなさせてもらった。
こう書くと、ずいぶん楽をしたように見える。実際には、小さいやり取りを何度も繰り広げていた。冒頭の会話はそのうちの一つだ。朝の一時間のために、私はいくつもの配慮を払ったことになる。
人生はおそらく、そう簡単に楽になるようには出来ていない。
お弁当を作ってもらう、というと楽そのものに聞こえる。でも何かの楽を取れば、必ず付随したタスクや代償が来る。買い物はどうするのか。当日の手伝いはどのくらい要るのか。代わりに引き受けるタスクはあるのか。そんなことを私は考える。そして私の場合、その付随タスクのイレギュラーさに、ほとほと疲れてしまう。
大事なのは、それを意識していようがいまいが関係ない、ということだ。無自覚な選択も、世の中から見れば立派な選択なのだ。今回のように、半分選ばされることもある。
『人生は選択の連続だ。人生はどの選択をとっても地獄である。その地獄がそれぞれ違うだけ』
誰の言葉か覚えていないが、私はこの言葉が結構好きだ。
どの選択も地獄だと考えれば、あとは好きな地獄を選ぶだけになる。幸いなことに、他人にとっての地獄が、あなたにとっての地獄とは限らない。だから、より良い地獄を選ぶには、いろいろな地獄を試して自分を知るのが最短距離だと思っている。多くの地獄を知って、自分が苦にならない地獄を見つけたり、楽しめる地獄を見つけたりする。
今回、私は「自分でお弁当を作る」地獄より、「パートナーに作ってもらう」地獄を選んだ。
どちらも体験済みで、どちらかと言えば自分で作る地獄のほうが性に合っていると分かっている。ただ今回はパートナーの意向があったので、そちらに乗っかった形だ。それに伴って小さなタスクが付いてきて、そのイレギュラーに対応することで、私は少し疲れた。
ここまで書いてきて気づいたのだが、私が地獄を選ぶとき、見ているのは目の前の辛さだけではないらしい。その地獄が連れてくるものまで含めた、全体の大きさだ。
何が派生するか。どれだけのタスクとストレスがくっついてくるか。
家事を主に担うようになって、5年になる。お弁当作りには慣れた。でも楽しくはないし、辛さも残っている。慣れは辛さを減らしてはくれなかった。減ったのは連れてくるもののほうだ。手順が体に入っている分、余計なものがついてこない。
家事の研究では、家事を「手を動かすこと」と「気づく・決める・段取る」に分けて考えるらしい。後者は認知労働と呼ばれている。実行を人に渡しても、こちらは自分に残る。あの朝、手は空いたのに頭が空かなかったのは、たぶんそういうことだ。
正直に言えば、本当に選びたいのは「お弁当が要らない地獄」だ。ただ、その地獄は私の価値観としては選択肢として選びづらい。
だから私がやっているのは、ベストな地獄を選ぶことではない。残っている中から、ベターな地獄を選ぶことだ。
そして、地獄そのものは選べなくても、その中でどう立ち回るかは選べる。細部は選べる。そこから何を持ち帰るかも、ある程度は選べる。
書きながら、判定が変わった。
私は「自分で作る地獄のほうが性に合っている」と思っていた。目の前の辛さで比べればそうだ。
でも連れてくるものまで入れると、今回のほうが大きかった。配慮も、段取りの組み直しも、全部くっついてきた。
それでも、こっちの地獄も悪くないと思っている。なぜなら、それはパートナーが自ら選んだ地獄だからだ。パートナーも進んでか、否応なしか、一つの地獄を選んだことになる。自覚しているかは分からないが、それが連れてくるものがあったはずだ。パートナーが選んだ地獄なら巻き込まれてもいい、そう思えた。
地獄は、入ってみないと何を連れてくるか分からない。
選んでみると、色々なものが持ち帰れる。
価値観や自分の特性だ。
そして地獄を選ぶ基準ができる。
パートナーには何を連れて来たのだろう。
もし今、段取り疲れをしている人がいるなら、この記事はここまでで足りていると思う。
私はもう少し先まで行く。私の場合、それが「今日は忙しかった」では終わらないからだ。
何が自分に多くを連れてくるのか。そこが分からないと、次も同じ疲れ方をする。
私は最近、自分の何十年かの歴史をさかのぼって、発達特性の凸凹を認知してきた。診断はついておらず、今のところ受けるつもりもない。価値観も分かってきた。
科学的な話ではない。ただ、こう考えると私は少し楽になる、という話だ。
自分を知りながら、生きやすく、幸せであれるように。
今日も地獄を、みずからえらぶ。
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