前の記事で、自分のやってきたことに「当事者研究」という名前があったと書いた。今日はその方法論の、いまの形を書いてみたい。
やり方は、こうだ。
まず、ふだんの仕事や暮らしの中で、たくさん動く。動いていると、疑問が湧く。「あの時のあの感覚は何だったんだろう」「なんで自分はこれが苦手なんだろう」。そういう引っかかりを、私はAIに投げる。壁打ちだ。
すると、面白いことが起きる。私が自己流でやってきた工夫や、うまく言葉にできなかった感覚に、たいてい名前が付いていることを教えてくれるのだ。「それは心理学でこう呼ばれています」「その方法は、こういう研究があります」。名前を知った時の、あの少し息が通る感じは、前にも書いた。
ただし、ここで終わりにしない。ここで終わりにしてはいけない、と思っている。
AIは、間違ったことを自信満々に言うことがある。それらしい顔で、もっともらしい嘘が混ざる。悪気はないのだろうが、混ざる。だから、AIに教わった名前を持って、次は本を開く。ちゃんとした人が書いた、ちゃんとした本で確かめる。私にとって「事実の確認」とは、本を読むことだ。
AIで名前を知り、本で確かめ、自分で試す。いまの私の当事者研究は、この三段で回っている。
これ、当事者研究という枠を外して眺めると、要するに「自習の仕方」なのだと思う。
たとえるなら、AIは家庭教師に似ている。それも、どんな分野の質問にも夜中まで付き合ってくれる、たいへん頭のいい家庭教師だ。ただしこの家庭教師、たまに堂々と間違える。だから教科書も併読する。家庭教師に案内してもらって、教科書で裏を取る。順番が逆でもいい。教科書で分からなかったところを、家庭教師に噛み砕いてもらう。
こんな家庭教師が、いま、誰の手元にもある。使わない手はない、というのが正直な気持ちだ。
そして思う。私がやっているのは、たまたま対象が「自分の凸凹」なだけで、形としては昔ながらの勉強と同じだ。動いて、引っかかって、聞いて、読んで、試す。当事者研究は、特別な人の特別な営みではなくて、現代の道具立てでやる、ごく普通の自習なのかもしれない。
対象が自分だから、教科書はどこにもない。でも、家庭教師がいて、図書館がある。それで十分、研究は始められる。
今日も一つ、引っかかりをAIに投げるところから始める。
みずから えらぶ。
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