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自分という実験台 ― 「当事者研究」という名前に出会うまで

私は昔から、自分を実験台にするのが好きだ。

グルテンフリーを試したことがある。断酒もやった。誰かに強く勧められたわけではない。仮説を立てて、自分で試して、確かめたかっただけだ。効いた気がするものもあれば、よく分からないまま終わったものもある。ただ、結果よりも「試して確かめる」という手続きそのものが好きだったのだと、今は思う。

最近、気づいたことがある。私の一番大きな実験対象は、食事でも酒でもなく、自分自身の発達の凸凹だったということだ。

診断を受けたことはない。ただ、予定が崩れた時に湧いてくる粘っこくぬるい怒りのような感情や、人と何かが少しずつ食い違っている感覚と、長いこと付き合ってきた。そして気づけば、自分の取扱説明書を何年もかけて自分で書いてきた。過去の失敗や違和感を振り返って、原因と法則を探す。医学の言葉を借りれば「後ろ向き研究」だ。そこから対策を立てて、次の場面で試す。こちらは「前向き研究」ということになる。

やり方は、いつの間にか型になっていた。起こりそうなことはパターンを出して、「もしこうなったら、こうする」まで決めておく。想定外が起きたら、判断をいったん保留して、その場はひとまずの対応でしのぐ。後で振り返って、引き出しに入れる。そして究極の構えとして、「想定通りにはいかない」ことを想定しておく。想定通りにいけば御の字、いかなくても、それはそれで想定通りというわけだ。

最近、AIと対話をしながら、この自己流のやり方に片っ端から名前があることを知った。「もし〜なら〜する」を決めておくのはif-thenプランと呼ばれていて、効果がよく調べられているらしい。書いて振り返るのは筆記開示。事例から法則を見つけたがる私の癖には、システム化という名前まで付いていた。名前を知ると、そこから本が読める。本を読むと、自分のやり方のどこが理にかなっていて、どこに落とし穴があるのかが分かる。名前とは便利なものだ。

そして先日、この営みの全体にも名前があることを教わった。

当事者研究、という。

北海道の浦河にある「べてるの家」という場所で始まった実践で、困りごとを抱えた本人が、自分自身を研究対象にして、観察し、仮説を立て、試し、仲間と共有する。そういう営みが、もう二十年以上積み重ねられてきたのだそうだ。自分が手探りでやってきたことに、先人と系譜があった。この感覚は、ちょっと言葉にしがたい。地図のない道を歩いてきたつもりが、ふと顔を上げたら、同じ方向に踏み跡がいくつも伸びていた——そんな感じだ。

思えば、ずっと前からその入り口には立っていたのかもしれない。私は昔から、うまく生きるための法則めいたものを見つけては、手元に書き溜めてきた。事例を集めて、共通項を抜き出して、なるべく一般的な形に整える。でもその「法則を探したがる」性質こそが、どうやら私の凸凹の一部らしい。

ならばいっそ、少し的を狭めて、深くしてみようと思う。一般的な原則探しから、「私」という一番手近な研究対象へ。研究の世界では、被験者が一人の研究をN=1と呼ぶそうだ。私の結果は、あなたには当てはまらないかもしれない。それでも、誰かの引き出しの一つくらいには、なれるかもしれない。

ライフワークのつもりでいる。急がない。考えていることはいくつかあるが、想定通りにはいかないだろうし、それも想定のうちだ。

もし読んでいて「自分の場合はこうだった」と思うことがあったら、聞かせてもらえるとうれしい。当事者研究は本来、仲間とやるものらしい。ここでは、匿名のあなたが、その仲間だ。

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