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「そうですか」の寂しさ

安全に関わる、ある気がかりに気づいた。職場でのことだ。

一番近くで見ているのは自分だ、という手応えもあった。だから、上の立場の人に伝えた。返ってきたのは、たった一言だった。

「そうですか」

責められたわけじゃない。否定されたわけでもない。数ある業務のうちの一つとして、静かに受け流された。何事もなければそれでいい——理屈では、分かる。

それでも、うまく名前をつけられない寂しさが、あとに残った。

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気がかりより、温度差がこたえた

自分には見えているものが、隣の人には見えていない。見えていても、同じ重さでは受け取られていない。たった「そうですか」で、こんなに置いていかれた気持ちになるのは、なぜなんだろう。

似たことは、形を変えてまた起きた。別の日、周りに「気にしすぎだよ」と言われた。優しい言葉で、実際すこし助けられた。でも同じ息で、「やっぱり、この人たちとは見ているものが違うんだ」と、静かに思い知りもした。

冷たい「そうですか」も、優しい「気にしすぎ」も、着地する場所は同じだった。私が見ているものを、誰も一緒には見てくれなかった。

「気にしすぎな自分」と「自分だけが本当に気づいている」は、内側から見ると、まったく同じ顔をしている。どちらも「周りは平気なのに、自分だけが気になる」という感覚だ。

決めるには、他の誰かがいる。「私も気になる」と言ってくれるか、「分かりました。私も気にしておきます」と受け取ってくれるか。正しさを判定してほしいわけじゃない。ただ、誰かが一緒に受け取ってくれるだけで、宙づりの気持ちは、そっと下に降りる。

でも誰も受け取ってくれないままだと、「考えすぎ」や「おかしなことを言っている」が残る。そして、ひとりで勝手にすり減る。

人は、自分の見ているものを誰かと分かち合えたとき、はじめて「それは本当にある」と感じられる。逆に、誰とも分かち合えないと、見ているものは宙づりのまま、自分ひとりの重さすら感じない。

ずっとあとになって、この寂しさに名前があることを知った。心理学では「共有現実」と呼ぶらしい。

名前を知っただけで、息ができた。重さもやっと1人分感じた。

私の寂しさは、弱さでも、考えすぎでもなかった。「自分にだけ見えているものを、誰も一緒に確認してくれない」とき、人は構造上そう感じるようにできている——ただ、それだけのことだった。

このブログは、そういう「気づいて、学んで、選びなおす、何度でも」を書き留めていく場所だ。

あのときの私は、「気にしすぎな自分が悪い」のほうへ流れかけていた。自分の感覚を、自分で取り下げようとしていた。名前を知ったことは、その取り下げを、いったん止めてくれた。

見えているものを、すぐに手放さなくていい。誰かと分かち合えるまで、そっと持っておいていい。そう思えるようになるまでの道のりを、これから少しずつ書いていくつもりだ。

ちなみに、この「分かち合い」は、相手が人のときと、AIのときとで、少し違う。それはまた、別の日に。

みずから えらぶ。

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